Project N47 Erica Kaminishi
Solo exhibition at Tokyo Opera City Art Gallery
Solo exhibition at Tokyo Opera City Art Gallery
時と場所を超えて結ばれるかたち 上西エリカの描く世界
ぼくから遠く離れて ぼくのうちに ぼくは存在する
ぼく自身であるものとは 別のところに
影と運動 ぼくはそのなかにある
フェルナンド・ペソア(*01)
大きな画面いっぱいに広がる鮮やかな色面。異なる色の液体が混じり合いながら流れていく一瞬を切り取ったかのように、そのフォルムはなめらかで有機的である。ところが、近づいてよく見ると、とろけるような柔らかさをもったそのかたちはゲルインクペンで書いた文字でびっしりと埋め尽くされていることに気付く。私たちの体を巡る血液にDNAが刻まれているように、上西エリカの描く抽象的な形は膨大な遺伝情報に満ちているのである。
日系三世としてブラジルに生まれた上西にとって、日本とは、自らのルーツであるとともに長らく空想の対象だった。家族の古い写真、歌曲や物語を通じて知るその国の姿は、ブラジルに暮らす上西の中で、蜃気楼のような確かさと不確かさをもって立ち上っていたにちがいない。ブラジルで西洋的な美術教育を受けた上西は、その後大学院生として東京で暮らし始めたことで、日本はもはや祖先の国としてだけでなく上西自身の日常/現実となった。しかし、若い世代の日系人の多くが経験するように、アイデンティティを巡る葛藤が上西の来日生活のうちに起こり、自らの拠り所を求める中で、母語であるポルトガル語圏の文学と日本の伝統的絵画の要素を融合した作品を制作することでその道を見出す。
本展のために描かれた一連の作品では、ポルトガル語圏を代表する詩人フェルナンド・ペソア(1888-1935)の詩が採用されている。(*02)ペソアは、少年期を英語圏で過ごすというハイブリッドな文化的背景を持ったポルトガル人であり、実名のほかにいくつもの異名を使って詩を発表するなど、自己同一性の定義を終生問い続けた詩人である。上西は、自身と同じ「在外人としての眼」を備えたペソアの詩をしばしば作品に採り上げているが、おどろくほどの緻密さでその詩行を配列する制作は、自らの内と外が複雑にからみあう自身の固有性を確認する手段でもあり、その作品は仏教において僧侶の修行の一種として描かれる砂曼荼羅にも似た密度と精神性に満ちている。
作品のタイトルにある「再現」についても記しておきたい。本展に出品の《夏と秋の再現》、《春と秋の再現》は、それぞれ酒井抱一の《夏秋草図屏風》(1821)、《四季花鳥図巻》(1818頃)に着想を得て描かれている。伝統的な日本の絵画についての上西の関心は、描かれたモティーフの造形的な要素というより、主題である四季と、それを表現する色彩にある。赤道をはさんで季節の反転したブラジルの地から日本に思いをはせる時、湿り気をおびた空気ににじむ自然の色彩と、伝統的な絵画や建築に見られる豪奢な金銀のコントラストに東洋的な美的観念を感じるという。色とりどりの既成のインクペンを使って描かれる文字の集積は、余白の白さを含んであわやかな色面を構成し、大きなうねりとなって画面に満ちる。母語の文字を骨子とし、祖先の国の記憶をまとったその流れは、支持体である和紙の四辺という境界を超えて、画面の外へとあふれ出ていくかのように広がりをみせる。実在と空想が混じり合い、時空を横断する中で純化されたものが、上西にとってのありのままの現実として表されているのだ。
* 01 澤田直訳編「(ぼくから遠く離れて)」『ペソア詩集』思想社、2008年、p.13
*02 ペソアの膨大な詩作のうち、邦訳が出版されているものはごく一部である。本展出品作に使われた詩については、福嶋伸洋氏(群馬県立女子大学および放送大学非常勤講師)の協力を得て和訳し、会場に設置した。
http://www.operacity.jp/ag/exh137.php
ぼくから遠く離れて ぼくのうちに ぼくは存在する
ぼく自身であるものとは 別のところに
影と運動 ぼくはそのなかにある
フェルナンド・ペソア(*01)
大きな画面いっぱいに広がる鮮やかな色面。異なる色の液体が混じり合いながら流れていく一瞬を切り取ったかのように、そのフォルムはなめらかで有機的である。ところが、近づいてよく見ると、とろけるような柔らかさをもったそのかたちはゲルインクペンで書いた文字でびっしりと埋め尽くされていることに気付く。私たちの体を巡る血液にDNAが刻まれているように、上西エリカの描く抽象的な形は膨大な遺伝情報に満ちているのである。
日系三世としてブラジルに生まれた上西にとって、日本とは、自らのルーツであるとともに長らく空想の対象だった。家族の古い写真、歌曲や物語を通じて知るその国の姿は、ブラジルに暮らす上西の中で、蜃気楼のような確かさと不確かさをもって立ち上っていたにちがいない。ブラジルで西洋的な美術教育を受けた上西は、その後大学院生として東京で暮らし始めたことで、日本はもはや祖先の国としてだけでなく上西自身の日常/現実となった。しかし、若い世代の日系人の多くが経験するように、アイデンティティを巡る葛藤が上西の来日生活のうちに起こり、自らの拠り所を求める中で、母語であるポルトガル語圏の文学と日本の伝統的絵画の要素を融合した作品を制作することでその道を見出す。
本展のために描かれた一連の作品では、ポルトガル語圏を代表する詩人フェルナンド・ペソア(1888-1935)の詩が採用されている。(*02)ペソアは、少年期を英語圏で過ごすというハイブリッドな文化的背景を持ったポルトガル人であり、実名のほかにいくつもの異名を使って詩を発表するなど、自己同一性の定義を終生問い続けた詩人である。上西は、自身と同じ「在外人としての眼」を備えたペソアの詩をしばしば作品に採り上げているが、おどろくほどの緻密さでその詩行を配列する制作は、自らの内と外が複雑にからみあう自身の固有性を確認する手段でもあり、その作品は仏教において僧侶の修行の一種として描かれる砂曼荼羅にも似た密度と精神性に満ちている。
作品のタイトルにある「再現」についても記しておきたい。本展に出品の《夏と秋の再現》、《春と秋の再現》は、それぞれ酒井抱一の《夏秋草図屏風》(1821)、《四季花鳥図巻》(1818頃)に着想を得て描かれている。伝統的な日本の絵画についての上西の関心は、描かれたモティーフの造形的な要素というより、主題である四季と、それを表現する色彩にある。赤道をはさんで季節の反転したブラジルの地から日本に思いをはせる時、湿り気をおびた空気ににじむ自然の色彩と、伝統的な絵画や建築に見られる豪奢な金銀のコントラストに東洋的な美的観念を感じるという。色とりどりの既成のインクペンを使って描かれる文字の集積は、余白の白さを含んであわやかな色面を構成し、大きなうねりとなって画面に満ちる。母語の文字を骨子とし、祖先の国の記憶をまとったその流れは、支持体である和紙の四辺という境界を超えて、画面の外へとあふれ出ていくかのように広がりをみせる。実在と空想が混じり合い、時空を横断する中で純化されたものが、上西にとってのありのままの現実として表されているのだ。
* 01 澤田直訳編「(ぼくから遠く離れて)」『ペソア詩集』思想社、2008年、p.13
*02 ペソアの膨大な詩作のうち、邦訳が出版されているものはごく一部である。本展出品作に使われた詩については、福嶋伸洋氏(群馬県立女子大学および放送大学非常勤講師)の協力を得て和訳し、会場に設置した。
http://www.operacity.jp/ag/exh137.php